命名の本質

目次

投稿日: 2025-05-25 日

1. 命名とは何か

命名とは世界を形作る行為である。 これは過言ではなく、仏教的真理から導かれる帰結である。

命名を軽視するものは世界のあり方を根本から誤認しており、 それは命名の前に「本質」が既にあるという誤認に基づいている。 世界に「本質」などなく「名」そのものが我々に「本質」を感じさせているに過ぎない。

2. 命名と存在論

仏教では「諸行無常」と「諸法無我」を真理としていて、 この二つを体得することで「涅槃寂静」すなわち楽になれるという、 考え(これを三法印という)で構成されている。

仏教的真理について中観派的な観点から説明する。 ただし、本節の内容は自己の解釈を含み中観派の主張を正確に再現できていない可能性があることについて注意していただきたい。 「諸行無常」とはこの世のすべてのものは常にうつろい変わっていくということを意味している。 このとき、それぞれが独立で変化するのではなく互いに依存しあって変化していると考える。 故に、固定的な「実体」は何一つとして存在していない、すなわち「諸法無我」であると導くのである。 しかし、我々は世界に「実体」があるかのように誤認する。 その原因は「名」にある。我々は言語によって世界を分別する。 現象やものに「名」がつくことによりそれが固定的な実体があるかのように誤解するのである。 それは、世界に実体が存在しその実体が生起したり消滅したりするという世界の誤認へと導いているのだ。

ここで、命名の実相が見えてくる。 命名とは世界の諸行無常の真のあり方を覆い尽くし、 この世界に固定的な構造や関係を構築する行為なのである。

3. プログラミングにおける命名

プログラミングでは、関数、変数、型、クラス、ファイルととにかく命名の機会が多い。 しかしそれは必然である。 プログラミングとは命名によって計算機上の世界を構築する行為だからだ。

そもそも計算機はバイナリ列を操作する装置にすぎない。 そこに名を与えなければどのような操作も意味を持たない。 バイナリ列への恣意的な意味づけがなければ、 ただバイナリの状態が変化しているだけである。 このありようはまさしく諸行無常であり計算機世界は離散的に空である。

しかし、我々は計算機で意味ある計算を行っている。 それは名付けによって意味のある世界を計算機上で構築した結果である。

システム設計者はこのことを強く認識する必要がある。 なぜなら不適切な命名をすればシステムを正しく理解・構築することはできなくなる。 システムが名と名との関係によって構成されている以上、これは自明である。

命名とは設計そのものである。

著者: Masaya Tojo

Mastodon: @tojoqk

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